鳥越城

豪華絢爛な印象がある加賀百万石。
その加賀百万石の前、前田利家が加賀の地を統治する直前まで、ここ石川に、大名の支配を受けず百姓たちが自らの手で治めた素朴な国があったことをご存じだろうか。
その国は、各地を大名が支配した群雄割拠の時代に約100年もの間続き、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。
その国ができるきっかけとなったのが、今から約500年前に起きた「加賀一向一揆(かがいっこういっき)」だ。

(本記事の写真はクリックで拡大できます。)

加賀一向一揆最後の砦、鳥越城の本丸跡に繋がる「本丸門」。

標高312m、東に手取川、西に大日川を望む山の尾根に建てられた「鳥越城」。
ここは、血で血を洗うような激しい戦いの果てに「百姓の持ちたる国」が終焉を迎えた場所なのだ。

そもそも『加賀一向一揆』って?

今から約500年前、飢饉や災害、疫病や高い税などに苦しむ民衆の間で、浄土真宗の一派である「一向宗」という仏教が大流行した。同時に、世の中に不満を持つ一向宗の門徒たちが結託して立ち上がり、権力者と武力でぶつかり合う「一向一揆」が各地で起こるようになった。

中でも加賀国(現在の金沢市から白山市のあたり)の権力者と、加賀国の一向宗の門徒20万人が衝突し、その後約100年にわたって門徒である百姓や僧たちが加賀国を自治した出来事が「加賀一向一揆」だ。

加賀国(かがのくに)の範囲

加賀一向一揆によって始まった、門徒たちによる約100年の自治「百姓の持ちたる国」は、織田信長の手によって終焉を迎えることとなる。
今回のライフマップでは、「加賀一向一揆」約100年の歴史の終焉と、 一向宗門徒と織田軍の戦いの舞台となった場所を紹介していく。

一向一揆終焉の地『鳥越城』

ここは、記事冒頭でも紹介した「鳥越城」。
一向一揆の鎮圧を目指して加賀国へ進軍を目論む織田信長の勢力に対抗し、白山の一向宗門徒たちによって築かれた城である。
城が建てられてから約8年、各地の門徒たちの抵抗もむなしく、織田勢力が加賀国一帯の一向一揆を制圧したことで、「鳥越城」は加賀一向一揆に残された唯一の拠点となる。

「鳥越城跡」
山の地形を利用して建てられた「山城」に分類される城。国の史跡に指定されている。

ここで、織田勢力と一向宗門徒による「百姓の持ちたる国」の存続をかけた最後の戦いが行われたのだ。

「中の丸門」
「門」というと漆喰と瓦のイメージがあるが、鳥越城の門は木製。天守閣もなく、追い詰められた門徒が木と石で作った城だったそうだ。
石碑には「天正八年十一月落城」の文字が。
築城の年ではなく落城の年が記されており、どこか寂しい気持ちにさせられる。
「桝形門」
門の内側に騎馬隊が待機する空間のある門。
どうやってここまで馬を運んだのだろうか。
「本丸跡」
本丸跡からも決して大きくはない城だったことが分かる。
柱や井戸の跡があり、当時の生活を想像することができる。
本丸跡からの景色。
田園風景が美しいふもとの町を隅々まで見渡すことができる。
本丸までは本丸直前の駐車場まで車で登ることができる。
当時の人たちの気持ちが知りたければ、車に気を付けて、歩いて登ってみてもいいだろう。

加賀一向一揆の壮絶なる終焉

1582年、本能寺の変の約3か月前、鳥越城は柴田勝家らの猛攻よって落城する。
鳥越城落城後、大規模な残党狩りによって300余人の門徒が手取川で磔にされた。その後も大規模な残党狩りによって、その後数年の間、白山麓の村々からは人の気配が無くなったと言われている。

「加賀一向一揆500年記念碑」
「一揆敗れて山河あり」と記され、 門徒が手取川で磔(はりつけ)にされる様子が彫られている。

鳥越城からは、山城として全国で最多クラスの100を超える鉄砲弾が出土している。また、城の周りには今も「首切谷」「自害谷」と呼ばれる堀が残されており、それらは戦いの壮絶さを現代へ伝えている。

現在、鳥越にある道の駅「一向一揆の里」では、「百姓の持ちたる国」から500年の節目である昭和63年より、毎年8月に「一向一揆まつり」が開催されている。
鳥越城で激しく戦った先人たちの遺徳をしのぶお祭りである。

※2023年12月現在、鳥越城への道は大雨による崩落の影響で通行止めとなっており、登ることはできない。
城跡は2024年度中の復旧を目指しているそうだ。無事な復旧を願うばかりである。

織田の軍勢、加賀国へむけて進軍!

加賀一向一揆が支えた「百姓の持ちたる国」は、なぜ突如として100年の歴史に幕を下ろすこととなったのか。
それは、天下統一を目指す織田信長が、家臣たちに加賀国を攻めさせて一向一揆勢力を殲滅したからなのだ。
以下の図は、織田信長の家臣である柴田勝家、佐久間盛政、長連龍がそれぞれどのように加賀国を進軍し、攻略していったかを表した図である。

越前(福井県)の方から北上する軍と、能登の方から南下する軍によって、加賀国を上下からはさむ形で攻略していったことが分かる。
織田軍の家臣たちは、まず金沢の中心部を陥落させると、一向一揆最後の砦となる「鳥越城」へ軍を進めていったのだ。

さらに、当時実際に戦いが起きた町のお寺、福千寺さんからお借りした資料を元に、より詳細な進軍ルートを予想したものが以下の地図である。
左上のアイコンをクリックで詳細説明の表示、右上のアイコンをクリックで地図を開くことができる。また、地図内のピンをクリックすると、その場所の情報や起こった戦いの詳細について読むことも可能だ。
戦いは金沢の中心部でも起きているため、進軍ルートのそばに聞いたことのある地名や名所がないか探してみるのも良いだろう。

※断片的な情報を頼りに作成した筆者オリジナルマップのため、実際のルートとは異なる場合があります。

ひそかに残る戦の気配 『木越町』

鳥越城が落城する少し前、金沢のあらゆる場所でも多くの戦いが起こった。
例えばここ、金沢市北部に位置する「木越町」。
一見、田園風景が美しいのどかな田舎町だが、一向宗門徒と織田信長の家臣、柴田勝家らが
約10か月にわたる攻防戦を繰り広げた場所なのだ。

「木越町」豊かな自然に囲まれ頭上には青空が広がる、どこかノスタルジックな町だ。

一揆が由来!?不思議な名前の川 3選!

この町には一向一揆にまつわる川の名前が今でも残されているのだ。

「血の川」
一見何の変哲もない川なのだが、恐ろしい名前がついている。

「血の川」
加賀一向一揆で討ち死にした兵士の血で染まったことが名前の由来とされる川だ。町に残された資料にも、この場所で激しい戦いが繰り広げられたことが記されている。

「今も尚は血の川の名称が残るのも如何に肉迫戦の激烈凄惨であったが偲ばれるのであります。」
(昭和49年 霊梅山福千寺 「木越乱」より抜粋)

一説には、近隣の山に住む大蛇の首をはねた際に鮮血が流れ込んだことが名前の由来だという説もあるらしいとか。

「馬渡(まわたり)川」
血の川に比べて大きな川。休日は釣り人に人気のスポット。

河北潟へ流れる「馬渡川」。
一揆の際に、馬を対岸に渡したためこの名前が付いたらしい。
今でも馬の匂いがすることがあるのは、金沢競馬場が近くにあるため。

「武者造橋」
ここで農民たちが戦の準備をしたためこの名前が付いたのだそう。
百姓が武者に変わる場所だったのだ。
「馬」に「武者」、どちらも戦を連想させる名前である。

馬渡川にかかる「武者造橋」
「牛殺川」
浅く、ゆっくりと流れる川。
欄干に川の名前が書いてある。ものすごいインパクトだ。

河北潟から隣町へと流れる「牛殺川」。
一見恐ろしい名前だが、「川の対岸に牛を運ぶときに、地面がぬかるんでいて牛がよく足を取られ苦難した」ことが名前の由来だそう。
こちらの河川名は一揆自体が名前の由来ではないのだが、室町時代後期を生きた人々の生活の苦労を垣間見ることのできる名前である。

以下は、川の位置関係を示した図である。
3本の川は全て河北潟に流れ込んでいることが分かる。
昔はさらに川が多く、住民はしばしば船で町内を移動していたそうだ。

河北潟へ流れる複数の川が、木越町付近へ放射状に広がっている。

これは一体…?町中に立つ謎の柱

変わった地名をめぐって木越町を散策していると、不思議な柱を見かけることがあった。
「歴史を風化させないために」と建てられた「標柱」というものらしく、
旧地名が書かれた柱が町全体に約20本ほど建てられているそうだ。
中でも興味深い逸話を持っていた標柱をいくつかご紹介しよう。

以下の地図に実際の標柱の位置を示した。
地図内のピンの数字は、地図の下で紹介する標柱と対応している。

①もんと

一向宗の門徒がこのあたりに住んでいたためこの地名が付いたそう。
大変ストレートなネーミングである。

②つりがねだ

ここに一向宗の寺があったとされる。
鐘が吊るされている様子からこの地名が付いたことが想像できる。

③ふないり

昔は町に川が多く、船で移動することもしばしばあったそう。
ここは、船で物資を運びこんでいた場所らしい。

④おおぶっと

町全体を囲む堀が由来となった地名。
川と堀に囲まれた要塞のような木越町に、織田信長の家臣たちが手を焼いたという記録が残されている。

⑤やしきまち

屋敷がたくさんあったとされる場所。
ここから焼米が出土し、今でも町のお寺で保管されている。

⑥すけいーもんきり

長年雨風にさらされているせいか壊れてしまった標柱も。
住人の方に伺ったところ「すけいーもんきり」と書かれていたことが判明。

裏切りによる崩壊「すけいーもんきり」

特に興味深い逸話を持っていたのがこの「すけいーもんきり」という旧地名だ。
木越町は当時、多くの川に囲まれた要塞のような町だったため、攻めてきた柴田勝家軍の騎馬隊は町に入れず、苦戦を強いられることとなった。
約10か月の攻防の後、隣町の助右衛門(すけいもん)という男が織田側に寝返り、水路の水門を切ってしまった。
すると水門が壊れたことで川の水位が下がり、騎馬隊が町に攻め入ってきたため木越町の一向宗が敗れてしまったのだそう。

門徒である僧侶や百姓と、織田軍家臣らの軍勢が激しく戦ったこの町には、その跡が今でも多く残されている。
喧騒から離れて一息つきたくなった時は、どこかノスタルジックな気分に浸れる木越町を訪れ、
500年前の出来事に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

そして加賀百万石へ『尾山御坊』

現在は観光地として有名な金沢城。今から約500年前、この場所には別のものが建っていたことをご存じだろうか。

「石川門」金沢城といえばこの門を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。石川門は国の重要文化財にも指定されている。

500年前この場所には、加賀一向一揆の拠点として「尾山御坊(おやまごぼう)」と呼ばれる浄土真宗の大きな寺院が建っていたのだ。
当時、寺の中には防衛体制を整えた集落の一種、「寺内町」と呼ばれる町が発展していたという。
このことからも、尾山御坊が石垣や堀に囲まれた巨大な要塞のような寺だったことが想像できる。

現在見られる金沢城の姿

「橋爪門」
漆喰の壁と石垣のコントラストが美しい。
「河北門」
どっしりとしたフォルムの大きな門。
見ているとなんだか安心するのは筆者だけだろうか。

『尾山御坊』から『金沢城』へ

これは尾山御坊の当時の社会的位置づけを記した資料だ。
一向一揆は当時、大名が警戒するほどの力を持ったひとつの社会勢力だったのだ。

1580年、一向一揆にとって重要な拠点だった尾山御坊は、木越町や鳥越城より先に柴田勝家と佐久間盛政の攻撃によって陥落させられることとなる。
その後、佐久間盛政が跡地に城を築き、「金沢城」と名付けたのが現在の金沢城のルーツなのだ。

そして加賀百万石へ

一代目金沢城城主、前田利家。加賀百万石の立役者である。
加賀藩は全国でもトップクラスの石高(経済規模)を誇った。

加賀一向一揆鎮圧からわずか3か月後、本能寺の変で織田信長が討たれると、信長の後継者の座をめぐり豊臣秀吉と柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」で衝突する。
秀吉の勝利とともに、金沢城城主の佐久間盛政が敗れ、1583年、秀吉に降伏していた前田利家が金沢城の新たな城主となった。
利家は秀吉の元でさらなる武勲を上げ、息子の利長とともに能登、加賀、越中の三国にまたがる加賀藩「加賀百万石」を築いたのである。

加賀百万石の華やかな歴史の少し前、室町時代後期から100年の間、加賀国、そして金沢には、泥臭く生きた人々がいた。
歴史に思いを馳せながら町を歩けば、一見平凡な風景も、どこか感慨深いものに見えてくるのではないだろうか。

<企画・制作・文責>ネコスケ
<撮影>ネコスケ
<サイトデザイン>2J、しょう、ぶい、はし
<キャラクターデザイン>ザシャ
<監修>よしぞう、菅次郎、ヒラ、3号
<校正・広報>まゆみん、アーリー
<発行者>九条
<取材協力・資料提供>福千寺
<参考文献>
「木越の歴史あれこれ」(西川庸一著)
「昭和49年 霊梅山福千寺」(梅木章英著 福千寺資料)
「なるわ 51号」(昭和54年発行 鳴和中学校 学校だより)
「百姓の持ちたる国 一向一揆ついに終えん」(一向一揆資料館 配布資料)
「鳥越城主鈴木出羽守」(一向一揆資料館 配布資料)
「読んで納得! 白山市おもしろ五十話 第四章 第34話」(一向一揆資料館 配布資料)
<写真提供>石川県観光連盟

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